クイズ仲間ああ言えば交遊録

LINEで送る
Pocket

LINEで送る
Pocket

第9回史上最強のクイズ王で西村を追い詰めた男–長束恭行

LINEで送る
Pocket

交遊録に入れるには年が下過ぎて、あんまり仲良く付き合った記憶はないのだが、そこはクイズ界、テレビ画面越しに活躍する姿を見ていると、初対面でも以前からの知り合いのように話せてしまう仲。

HCMCに遊びに来たという長束恭行と先週末一緒にメシを喰った。

Nagatsuka Yasuyuki

カテゴリはちょっと違う気もするが、「ああ言えば交遊録」というタイトルにはうまくあてはまりそうな人物なので(失礼)、番外編として入れておくとする。

まず、Wikipediaから長束の経歴を抜粋する。

長束 恭行(ながつか やすゆき、1973年1月9日 – 血液型O型)は、日本の愛知県出身のクイズ挑戦者、スポーツライターである。現在はリトアニア在住。

高校時代から視聴者参加型クイズ番組に多く出場し、同志社大学経済学部在学中にクイズ研究会を設立。特に『史上最強のクイズ王決定戦』(TBS)の第9回大会における西村顕治との早押しクイズでの激闘が有名。クイズ大会の優勝歴には、1992年に行われた日本学生クイズ連盟主催のオープン大会『第10回マン・オブ・ザ・イヤー』がある。

東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)行員時代の1997年クロアチアで行われたUEFAチャンピオンズリーグの試合を見たことでサッカーに対する感銘を覚える。その後スポーツライターとしてクロアチアと日本を往復する生活を繰り返し、2001年から同国首都・ザグレブ在住となる。ザグレブ大学クロアチア語コースを修了。

ザグレブ在住となった時から現地のスポーツ専門サイトのカメラマンとして活動するほか、サッカー雑誌の記事執筆、やべっちFC~日本サッカー応援宣言~テレビ朝日)のクロアチア代表偵察要員としての出演など、多方面で活躍。

2011年より、生活の拠点をクロアチアからリトアニアへと移した

私より7才年下なので、直接会った記憶はないのだが、彼の話だと、私と稲川さんが呼び掛け人として興した名古屋の社会人クイズサークル「どえりゃあもんくらぶ」に高校生の時から出入りしていたという。

 

第13回ウルトラクイズ後に私に会っていると長束は言うのだが、私は例によって記憶が定かでない。

ウルトラ以降で名古屋に寄る機会はなさそうなものだが、仲野隆也主催の企画があって会っていると長束が言うのだから、きっとそうなのだろう。

他で言えば、直接顔を合わせたのはFNSの第2回と第3回らしい。その頃は、彼もまだ若くて、上位に入賞できなかったころなので、正直のところ、私の記憶にはあまり残っていない。

ただし、彼は私の獲れなかった学生日本一「マン・オブ・ザ・イヤー」のタイトルを獲っているし、「第6回FNS」準優勝や「第9回史上最強のクイズ王」での西村との差しの早押しでの激闘など、クイズの経歴からすれば、私を遥かに凌駕している。

テレビの視聴者参加クイズ番組がなくなってしまい、マニアばかりが集まる競技大会での難問クイズの路線を敷いたのが彼だという。

 

ともに海外在住ということで、ツイッターなどで以前から話をしていたが、今回は都合よく彼がベトナムに来てくれ、一緒にメシでも喰おうということになった。

彼はクロアチア在住時代に通訳兼サッカージャーナリストに転職し、現在に至っている。

だが、サッカージャーナリストなってからも、クイズへの情熱は変わらず、ときにクイズ界に辛辣な意見を述べたりしている。

 

まあ、昔を振り返ると話したいことは今でもあって、私と彼との接点といえば、名古屋の「どれりゃあもんくらぶ」だったり、はたまた「史上最強」での悔しい思いだったり、師匠筋の近況の話だったりする。

住んでいるところに、ロクな日本食レストランがないらしく、ベトナムに来る前に寿司が食べたいというリクエストがあったので、それに答えて、食事はリーズナブルな寿司屋にした。

実は、昨年のマン・オブ・シニアの後で、岐阜で稲川さんも交えて、3人で会おうかと話し合ったのだが、結局、都合が合わず、お流れになっていた。

でも、そう言えば、なぜか稲川さんの話で盛り上がることはなかったなあ。

まあ、いいか。

 

LINEで送る
Pocket

1989年のボルティモアの闘いは永遠に忘れない–長戸勇人

長戸勇人
LINEで送る
Pocket

交遊録でこの男に触れぬ訳にはゆくまい。
今日のマンオブシニアの戦いの前に記しておこう。

ウルトラクイズで見ていただいたように僕は長戸と仲良しではない。(笑)
最近、メッセージをいただいたファンの方々の中には、放映当時まだ幼くて本当に仲が悪いと思っていて、今年初めの再放送を見て、友達だったんだと気づいた人もいたみたいだ。
仲良しではないというのは、冗談で、言ってみれば、良きライバルだったから。

Baltimore 4

80年代後半の学生クイズ界は完全に西高東低で、名大と立命館のトップが学生№1の時代だった。
仲野、加藤、長戸と86年から3年連続で両サークルからマンオブを制覇する者が出ているし、予選のペーパーは僕ら名大がトップのシード席をほぼ独占した。

関東の学生サークルはクイズから離れてお遊びのサークルと化していたが、彼らが70年代生まれを中心に巻き返すのは90年代初めの日本一決定戦ものからだ。

長戸の記憶では、僕との初対面の時の早押し対決で、7○3☓ルールのときに6-0から僕がひっくり返して勝ち、奴は自分よりも早押しで強い奴がいることに衝撃を受けたという。
以来、両サークルの交流と重なるように、ホノルルクラブの合宿などで僕たちは時々会って対決した。

だから、13回のウルトラクイズで彼も僕も予選を勝ち抜き、更にはオーストラリア、アメリカを残って、一緒に戦えたことを僕は心底喜んでいた。

決勝は長戸と戦って勝利したいと思っていた。彼はその前年のマンオブで優勝し、勢いがあったし、その彼を破ってこそ、文句なしの王座につけると思ったから。

ボルティモアの準決勝の前の晩、僕と長戸はホテルが同室で、夜遅くまで翌日の勝負への思いを語り合った。
「どうしても明日は勝つ」と。正確には「勝たなければならない」だし、「勝つ運命にある」だった。

長戸の言葉を拝借するが、ボルティモアの戦いはきっと神様が残しておいてくれたプレゼントなのだと思う。
僕や長戸のためだけでなくて、すべてのクイズファンのために。

Baltimore again

さて、今日はきっとまた、ボルティモアとは違った新たなドラマが生まれるぞ。

LINEで送る
Pocket

「TVクイズ大研究」は60年代生まれのバイブルだ–北川宣浩

ホーチミン市での北川宣浩氏
LINEで送る
Pocket

マンオブシニアの開催に因んでということで書き始めたこの交遊録で、マンオブシニアに参加できる60年代生まれの人を中心に書いてきたが、クイズ仲間の交遊録ということなら、やはり先輩方にも触れずには済ませられない。

ウルトラクイズがきっかけでクイズの道に入った僕にとって、クイズ人生の起点に位置し、かつ、クイズの師匠でもあるのが、北川宣浩氏だ。

北川氏は、ちょうど一回り上の世代で、第2回ウルトラクイズを初め、多くのクイズ番組で優勝されており、所謂「クイズ王」のはしり的な存在として知られている。
1981年に自らのクイズの勉強法を紹介した「TVクイズ大研究」は僕ら60年代生まれの世代のクイズマニアのバイブルとなった。

北川宣浩

これまで紹介した同世代のクイズ仲間はいずれもこの本をもとにクイズの勉強に励んできた。
僕らの世代のクイズ仲間はいずれも「北川チルドレン」と言っても過言ではなかろう。

僕は彼の「TVクイズ大研究」の中で書かれていた「クイズスターにファンレターを出すには」という項目を読んで、本の著者である北川氏自身に手紙を出したところ、ご丁寧に返信をいただいた。
以来、長年、手紙のやり取りでクイズの勉強についてアドバイスをいただいた。
そのころ、長戸勇人も同じように北川氏に手紙を書き、彼の家まで遊びに行ったと後日告白している。

当時はファンレターをもらう立場がどんなものか想像つかなかった。
ウルトラクイズに出て、ちょっとしたクイズスターになって、同じ立場に立つなんて驚きだし、そういう時の北川氏の対応のことを思い出し、できるだけ、手紙をいただいた方々には返事を書くようにしている。

最近ではSNSなどで簡単に直接連絡がとれる時代だ。当時の手紙をしたためていた時代とは隔世の感がある。

北川宣浩氏とHCMCにて

実は、昨年9月、ベトナムに来られるということで、事前にツイッターでご連絡をいただいた。
そして、来られた際にはホーチミン市をご案内・ご同行させてもらった。

クイズの会場などで何度かお会いしたことはあったのだが、丸々2日間じっくりお話したのはこのときが初めてだった。

 

北川氏はブログを毎日書かれていて、これがなかなか面白い。

イケてる、モノ・コト

また、ご自身のサイトには出版されたクイズ本や出演された番組の記録が写真入りでしっかりとまとめられている。クイズの好きな方は訪れてみて絶対に損のないサイトだ。

北川宣浩のホームページ

北川氏は旅行関係のお仕事をされているので、またベトナムへいらっしゃることを楽しみにしている。

LINEで送る
Pocket

アップダウンクイズで2度優勝した凄い昭和40年男–加藤実

加藤実
LINEで送る
Pocket

クレタという出版社が発行している「昭和40年男」という雑誌がある。
昭和40年4月から41年3月までの生まれの年代の男性をターゲットにした雑誌だが、僕などはその対象ズバリそのものだ。
僕に限らず、この年代はクイズの世界でも実に目立った年代のように思う。
ちょっと見渡しただけでも、長戸勇人、仲野隆也、斉藤喜徳、大江成人といった面々や、女性でも石野まゆみ、青木紀美江という顔ぶれが揃っている。
今回のマンオブシニアは60年代生まれと制限したが、その中でもまさしく中心世代と言えるのではないだろうか。

そして、もう一人忘れてはならない昭和40年男が加藤実だ。

彼は高校生のときにアップダウンクイズで長戸勇人と一緒に出て、優勝し、その後、大学に入ってからもさらにアップダウンで西村顕治と一緒に出て、やはり優勝している羨ましいやつだ。

加藤実

僕が羨ましがるのには理由がある。
クイズ番組の予選は合格通知がもらえても、「アタック25」のように必ずしも本番の番組に出場できるとはかぎらないケースがある一方で、当時のアップダウンクイズは合格通知がもらえれば、必ず出場できる番組として知られていた。そして、僕は大学1年のときに予選会で予選を受け、合格通知を手にしていた。
だが、出場できなかった。何故か? 
番組が終了してしまったからだ!
そういうこともあって、同年代の加藤のアップダウン2度出場、2度優勝は実に羨ましいのだ。

彼の記憶によれば、僕と加藤との出会いは、先の仲野の時にも紹介した東京でのトリビアルパスート日本選手権のようだが、僕にはまったく記憶がない。

彼とはクイズの仲間というよりも飲み仲間の印象が強くて、いっしょにクイズした記憶が非常に薄いという珍しいクイズ仲間だ。

僕の記憶がないので、これまた彼の記憶によると、1987年のマンオブでは準決勝で同じ組になったが彼に負けている(らしい)。そして、この年、彼はマンオブを制覇する。

彼は京都大学の学生だったが、クイズ研のなかった京大から立命館のRUQSに加盟して、RUQSで腕を磨いていた。
前回に紹介した稲川氏に会った当時、彼が長戸と加藤の後輩二人にはクイズの実力でまったくかなわないと言っていただけはよく憶えている。

だが、加藤とクイズをした記憶のほとんどはぶっ飛んでいて、僕が行きつけだった名古屋大学の近くのワインスナック「メルシャン」で髭のマスターあべちゃんを相手に一緒に飲んだ記憶だけが鮮明だ。

アップダウン2度優勝、マンオブ制覇の実力者が、90年代初めの日本一決定戦番組では知られた成績を残していないのは、すでに社会人生活に入ってクイズを引退していたためだろうか?

う~ん、記憶にないのだ。

加藤、これを読んでいたら、コメント欄にクイズの思い出話を書き綴って欲しい。よろしく。

LINEで送る
Pocket

第11代ウルトラクイズの王者にしてRUQS創設者–稲川良夫

稲川良夫
LINEで送る
Pocket

僕が創設した名古屋大学のクイズ研究会は昨年末に30周年を迎え、昨年は盛大な記念パーティーを行ったのだが、その際に聞いたのは、こうして30年以上続いているクイズサークルは極めて少ないとのことだった。

僕らより長い歴史を持つのは東京では、早稲田、慶応、東大、関西では立命館くらいで、我々名大はその次あたりに長寿のクイズサークルということになる。

年末に開催されるマンオブシニアはそうした老舗の大学のクイズ研のメンバーも多数参加する。

先日、我が名大の盟友・仲野を取り上げたので、今度はライバルに目を向けたい。

我々名大の長年のライバル校といえば立命館大学で、年末に行われている対抗戦は今年で26年目を迎え、対戦成績は名大の12勝14敗で、2つ負け越している。

1986年から一緒にマンオブに参加したが、ウルトラクイズの11回、12回、13回の3連覇あたりから、差をつけられてしまった。それまでは、互角以上と言ってもいいくらいだったのに。

その立命館大学のクイズサークルといえば、ご存知、RUQSで、その創設者が第11回の優勝者でもある稲川良夫氏である。

後輩連中からも「稲ちゃん」とか「ジジイ」とかの愛称で呼ばれる、親しみやすい性格のおじさんである。

そもそものきっかけはトリビアルパスート日本選手権で我々が上位独占したことを聞きつけ、どんなサークル活動をしているのが、彼が名大に遊びに来たことに端を発する。

以後、箱根の西側の大学クイズサークル同士で交流が始まり、学生日本一決定戦のマンオブには、仲良く大垣夜行で東京まで向かったものだ。

1986年の我々名大の完全制覇の時には、準決勝で、僕が稲川、長戸、鎌田という当時のRUQSの主力3人衆を通過クイズで破って決勝に進出したが、87年、88年にはRUQSに学生日本一の座を明け渡した。

稲川氏は岐阜の大垣出身で、大垣は完全に名古屋圏なので、出逢った当時(4+1)回生だった彼は卒業後の名古屋での社会人クイズ・サークルを作りたいという気持ちも腹の中に秘めていたらしい。

それで、彼に会って意気投合し、名古屋に社会人クイズ・サークルを作ろうということでできたのが、「どえりゃあもんくらぶ」である。僕も参加していた初期は、寺島満智子氏、五島滋子氏、宮崎良雄氏、宮崎武雄氏、加藤厚氏といった錚々たるメンバーが揃っていた。もちろん名大からは仲野も参加していて、企画担当として活躍してくれたが、これは仲野の紹介ページでも触れたので、ここでは繰り返さない。

そして、彼はこのサークルからちょっと足の遠のいた頃にあの「事件」が発生する。

「稲ちゃん」後楽園(ドームになる前)を通過するという「事件」だ。

毎年8月のウルトラで大物が予選を通過すると、9月になると、彼は今どこまで行っているという話題で毎日が持ちきりだった。

「稲ちゃん」の時も、どうやら敗者復活で名古屋に行ったらしいから始まって、日々刻々、次から次へ情報が入ってきていたことは憶えている。でも、どうやって入ってきていたのかはあまり定かでないのだが。

東京は、村田さんを中心としたホノルル・ルート、関西は関クイ-RUQSのルートで、あとは名古屋のどえりゃあもんのルートだったはずだ。

そして、稲ちゃんは、とうとう優勝してしまった。第11代のウルトラクイズの王者である。

昨日までは、簡単に叩いて捻り潰していた存在が、急に巨大な羨望の的に変身したことに、なんとも言えないやるせなさを感じたことはたしかだ。

アタック25での優勝というタイトルはあるものの、他はとくに目立った成績は残していない。でも、ウルトラクイズの優勝者というタイトルがあれば、それで十分すぎるわけだ。まったくもって羨ましい。

以後、90年代初めの日本一決定戦番組で何度か顔を合わせたりした程度で、それがある時、とんねるずの番組のコーナーでダイビングクイズをやって、僕が簡単に勝ってしまったのだが、あまりに面白くなさすぎてか、没になってしまい、オンエアされず終いだった。

彼自身、その後何年も経ってから、ふと思い出したように僕のことを「クイズティーチャー 秋利美紀雄」と題してブログに書いている。

……その後とんねるずの番組の1コーナーでダイビングクイズ(=1対1の対戦クイズでそれぞれがすべり台に乗り、クイズに正解すると相手のすべり台の傾斜が一 段大きくなっていって、先にすべり落ちたほうが負けというレトロクイズ)をやっていたとき、クイズ王対決と銘打った回で、僕が呼ばれたことがあった。相手 はなぜか秋利。本番では僕と秋利が1問ずつを答えてお互い1段階ずつアップした3問目、秋利が答えて僕のすべり台がもう1段あがったところで、僕はこらえ きれずにあっけなく風船の海にすべり落ちた。「秋利がクイズ王対決に勝利」した瞬間なのだが、あまりにあっけなく勝敗がついてしまったため、その収録は結局オンエアされずにお蔵入りになってしまったのである。

ハウエバー稲川のパチンコ島通信」よ

 
最近はツイッター上でときどき会話したりもしている。
ツイッター上には、ウルトラファンの女性らも大勢いるが、愛される存在「稲ちゃん」は健在で、彼女らにも人気のようだ。

クイズトークライブ今年は7月にクイズジャパンのトークライブで、二十数年ぶりに顔を合わせ、当時の思い出話を語り合った。とにかくいっぱいしゃべりたい人なので、好き放題しゃべらせてやっていたら、ご満悦そうだった。話好きのいいおじさんであるのは、今も昔も変わらない。

年末のマンオブシニアも参加できることになったみたいだし、また会って当時の思い出話に花を咲かせることができると思うと、今から楽しみだ。

 

LINEで送る
Pocket

3択問題を毎週100問作成!名大の誇った問題製造マシン–仲野隆也

仲野隆也
LINEで送る
Pocket

交遊録の先鋒が相原なら、次鋒は仲野隆也だ。

相原は現在マンオブシニアの準備の関係で近頃は頻繁に連絡をとっているので、
昨日出したブログ記事にすぐに反応して連絡をくれたが、(だから、あんまり下手なことも書けなかったんだけど^^;)
仲野は最近メールしても、なかなか返事も返ってこないし、このブログも読んでないだろうから、気兼ねなく思ったことが書ける。(^^)

仲野隆也は、生まれは同学年だが、一浪して大学に入ってきたので、以来、ずっと後輩扱いだ。
本人はそれをちょっと不満に思っていたようで、先日のQuiz Japan主催の東京でのトークライブの際にブツクサ言っていた。

仲野隆也

名大クイズ研30周年パーティーで挨拶する仲野隆也

仲野のクイズデビューも相原同様高校時代で、クイズタイムショックの高校生大会で9問正解して優勝。
このときには、今や押しも押されぬクイズの女王・石野まゆみも出場していて、彼女は8問正解で仲野に敗れている。

高校時代にテレビ出場したことから、大学のクイズ研以前から僕の方は知っていて、名大にクイズ研究会を作った時も、ひょっとして彼がサークルに入ってこないかなという期待はあった。
そして、期待通り、クイズ研究会設立後の1985年4月の会員募集時に見事彼はやってきた。
各サークルが新入生を勧誘する「地獄の細道」というサークル紹介のイベント中、「ああ、あった、あった、ここだ」とかなんとか言いながら、クイズ研にやってきたのだった。

1984年12月にできたばかりの名古屋大学クイズ研究会に仲野が加入したことで、我々のサークルが大きく飛躍する基礎ができたということは紛れもない事実だ。この後、名大クイズ研は設立時に参加した大石禎(第15回ウルトラ・第10CPドミニカ敗退)と、呼び掛け人の僕、さらに仲野の同い年生まれ3人が中心になって活動していった。

仲野は家が三重の県庁・津にあって、毎日、電車で2時間以上かけて、自宅から大学まで通っていた。
電車の中で暇な時間は腐るほどあるということで、その時間をクイズの問題づくりに充てていた。

そういう中で生まれたのが、毎週クイズの例会で行われた3択100問ペーパークイズだった。

これはウルトラクイズの成田からグアム(あるいはサイパン)に向かう飛行機の中で行われたクイズと同じ形式で、
100問のマークシート方式の3択クイズを8分、つまり1問あたり4.8秒という短時間で解くというものだった。

本番のウルトラクイズでは200問ずつ2回の合計400問で行われたが、仲野は毎週その3択を100問用意し、僕らはそれにほとんど毎週挑戦した。
問題作成をしたことのある人ならわかると思うが、問題というのはそんなにポンポン浮かんでくるものではない。
それを、学生時代を通じて、ほとんど毎週のように100問の3択ペーパークイズを作って、皆を楽しませ、実力を鍛えていた彼には、今思うと本当に頭がさがる思いだ。
今更だが、この場を借りて感謝の意を表したい。(たぶん本人は読んでないだろうが^^;)

年末に東京で開かれていた学生日本一決定戦でもこの形式で予選を行うのが恒例となっており、日頃から仲野が作り出す3択で鍛えられていた我々名大勢は圧倒的な強さを見せつけ、「3択の名大」の名前で一躍知られるようになった。
仲野と僕が出場していたころの1986年から1988年までの3年間は、予選の1位と2位に与えられるシード権を僕と仲野の2人でほぼ独占していた。

とりわけ、1986年のマンオブは予選1位秋利、2位仲野で、決勝で仲野が優勝、僕が準優勝と名大クイズ研の台頭を轟かせる大会となった。
僕自身はこの3年間はすべてシード権獲得、うち86年と88年は1位だった。それもこれも仲野の3択問題のおかげである。

彼の作った毎週の3択クイズの問題集は、その後、立命館など他大学のサークルの人も欲しがり、コピーが出回るようになった。今ならオープン大会の問題集がふつうに出回るようだが、当時はそういうことは珍しく、言ってみれば、彼の3択問題集はそうしたクイズ問題集の走りだったと言えるかもしれない。

プレーヤーとしての彼の足跡は、先に上げた高校時代のクイズ・タイムショックの優勝やマンオブの優勝以外に、これに先立つ1985年のトリビアルパスート日本選手権で、同じサークルの同級生・松岡と出場し、僕と相原のペアを抑えて優勝している。

1989年の第13回ウルトラクイズでも彼の活躍で、僕や長戸など、名大・立命館組が大量予選合格する原動力となっていた。だが、この大会では当の本人は成田のジャンケンで負けてしまい、これ以降、日本一決定戦ものの番組もそこそこのところまでは行くのだが、パッとした戦績は残せていない。

これまで振り返ってみてきたように、彼はプレーヤーとしてももちろん有能だったが、それ以上に問題制作者、企画者として優れていた。

東京のホノルルクラブや関西クイズ愛好会のような社会人クイズサークルを中京地区に作ろうと稲川良夫氏(第11回ウルトラクイズ優勝者)と企画したとき、僕が企画担当者として有能な仲野をサークルに引き入れた。

その後、僕は何回か名古屋大学クイズ研に足を運び、ついには秋利とともに、名古屋に新しい社会人クイズサークルを立ち上げることにした。このときも、でき るだけ多くのクイズプレイヤーに参加してもらうために、クイズ界では無名だった僕と秋利だけでなく、五島滋子さん(第1回ウルトラクイズ準優勝)と寺島満 智子さんにも発起人になってもらおうという僕の提案に対して、秋利は、例会を盛り上げるためにも企画が得意な後輩の仲野隆也を発起人に加えたいと提案し た。このあたりもクイズティーチャー秋利美紀雄らしいナイスな発想だった。

ハウエバー稲川のパチンコ島通信「クイズティーチャー 秋利美紀雄」より

「どえりゃあもんくらぶ」という名のこのサークルも、きっと仲野なしではうまくいかなかったろう。

その後、僕も彼も東京へ移り、これまたクイズ部というサークルを立ち上げて、一緒にクイズを楽しんだ。

仲野隆也言ってみれば、仲野は僕がもっともクイズを一緒に楽しんだ伴侶のようなものだった。もちろん、共有した問題数で言えば、まちがいなく彼が最多だった。

彼は大学を卒業後はFMラジオの放送会社に就職したのだが、10年ほどして辞め、ついには長戸勇人ともにクイズの問題制作会社「セブンワンダーズ」を設立、クイズ制作を生業とすることになって現在に至っている。
クイズ、まさしくこれこそが彼の天職であり、人生なのだろう。

LINEで送る
Pocket

1980年代のクイズ界に彗星の如く現れたプリンス–相原一善

相原一善
LINEで送る
Pocket

年末のクイズの祭典「Man of the Year Senior」の開催まで残り3週間を切った。

出場する人しない人、いろいろだが、かつてのクイズ仲間の思い出を綴ってみたい。

「クイズ仲間ああ言えば交遊録」と題して、マンオブ開催まで毎日とは言わないが、2日に1回位書いていきたい。

さて、この「クイズ仲間ああ言えば交遊録」のトップバッターは相原一善だ。

相原について、ひょっとして一般の方々はご存じないかもしれないが、今回のマンオブシニアでは大会実行委員長を務めている。

なぜ彼が僕のクイズ仲間の交遊録のトップに来るかといえば、いまだに付き合いのある同世代のクイズ仲間のうちでも、もっとも長い付き合いだからだ。

彼は僕よりも1つ歳上で、高校2年のときにクイズ・アタック25の一般大会に出場、周りの大人たちを破って優勝したのだ。当時、高校生や中学生がこうした番組出る機会といえば、夏休み高校生大会とか中学生大会だったので、番組を見ていて、一般の大人に混じって出られるなんて思いもよらなかった。しかも、彼はそこで優勝してしまったのだ。クイズに志していた当時の秋利少年にとっては、彼は突然現れたシンデレラ・ボーイだった。

相原一善

高校時代に相原に送った手紙–今も保管してあるという。ラブレターでなくて良かった(笑)

それで、この番組を見て、きっとこの相原くんも自分と同じようなクイズマニアにちがいないと勝手に思い込み、テレビ局経由で彼に手紙を出してみた。すると、彼からも手紙が返ってきて、それ以来ずっと大学も違えど、クイズ仲間と言うわけである。

彼と直接顔を合わせるのは大学時代で、東京の早稲田や慶応の学祭などに出かけたり、ホノルルクラブの会合に参加したりの際だ。ホノルルクラブの合宿の際にめったに会えない学生仲間同士で交流戦を行なったりしたのは懐かしい思い出だ。

大学2年から3年に上がる春休みには、日刊スポーツ主催でトリビアル・パスートというクイズのボードゲームの大会が東京で開催されたのだが、その際は彼と組んで出場、見事、準優勝を勝ち獲った。大学の違う異色のペアだった。

僕が大学3年のときに準優勝した1986年のマンオブでは、日本クイズ学生連盟の会長を西村顕治が務め、相原はその下で実務の中枢を担っていた。そして、翌年には彼は連盟(通称:学連)の会長を務める。先に掲げた写真はその当時のものだ。

相原一善

大学時代、彼が名古屋に来て、遊びに行った遊園地のチケットだ。いわくつきのもので、いまだ残っていたそうな。でも、まさかこれまでこのブログにのっけられるとは、思ってなかったろうな。ご本人はドッキリだけど、見ている人には何のことだかわからないから、まあいいだろう。

ウルトラクイズの際はだいだい彼と一緒に行動していた。

まず、第1問めに関しては、まだあたりの暗い早朝から彼やホノルルクラブ会長の村田さんと連絡をとり、毎年正解の情報を入手していたものだ。

第13回のときには、彼は就職活動中ということで、たとえ勝っても出られないことがわかっていた。それで、100名が決定する直前に周囲の多くの人を引き連れて自爆してくれた。ナイスアシストだった。感謝、感謝。

でも、彼自身は、アタックの優勝以降は、ぱっとせず、クイズの歴史においては、彗星のように現れて、彗星のように消え去ってしまった。

ちなみに、ちょっと個人情報を垂れ流しておくと、相原の誕生日は1964年7月29日でちょうど長戸勇人の誕生日の1年前にあたる。同じような関係が僕と西村顕治で僕の誕生日1966年2月11日の1年前が西村の誕生日というわけである。それがどうしたと言われれば、それまでのことでしかないが。

今回のマンオブシニアの開催においては、一緒になって大会開催まで頑張ってきた。あと一息というところだ。

昔からの仲間とともに一つの目標に向かって頑張るというのも悪くない。

今後も是非仲良くしていきたい貴重な友人だ。

 

LINEで送る
Pocket