仲野隆也

第11代ウルトラクイズの王者にしてRUQS創設者–稲川良夫

稲川良夫

僕が創設した名古屋大学のクイズ研究会は昨年末に30周年を迎え、昨年は盛大な記念パーティーを行ったのだが、その際に聞いたのは、こうして30年以上続いているクイズサークルは極めて少ないとのことだった。

僕らより長い歴史を持つのは東京では、早稲田、慶応、東大、関西では立命館くらいで、我々名大はその次あたりに長寿のクイズサークルということになる。

年末に開催されるマンオブシニアはそうした老舗の大学のクイズ研のメンバーも多数参加する。

先日、我が名大の盟友・仲野を取り上げたので、今度はライバルに目を向けたい。

我々名大の長年のライバル校といえば立命館大学で、年末に行われている対抗戦は今年で26年目を迎え、対戦成績は名大の12勝14敗で、2つ負け越している。

1986年から一緒にマンオブに参加したが、ウルトラクイズの11回、12回、13回の3連覇あたりから、差をつけられてしまった。それまでは、互角以上と言ってもいいくらいだったのに。

その立命館大学のクイズサークルといえば、ご存知、RUQSで、その創設者が第11回の優勝者でもある稲川良夫氏である。

後輩連中からも「稲ちゃん」とか「ジジイ」とかの愛称で呼ばれる、親しみやすい性格のおじさんである。

そもそものきっかけはトリビアルパスート日本選手権で我々が上位独占したことを聞きつけ、どんなサークル活動をしているのが、彼が名大に遊びに来たことに端を発する。

以後、箱根の西側の大学クイズサークル同士で交流が始まり、学生日本一決定戦のマンオブには、仲良く大垣夜行で東京まで向かったものだ。

1986年の我々名大の完全制覇の時には、準決勝で、僕が稲川、長戸、鎌田という当時のRUQSの主力3人衆を通過クイズで破って決勝に進出したが、87年、88年にはRUQSに学生日本一の座を明け渡した。

稲川氏は岐阜の大垣出身で、大垣は完全に名古屋圏なので、出逢った当時(4+1)回生だった彼は卒業後の名古屋での社会人クイズ・サークルを作りたいという気持ちも腹の中に秘めていたらしい。

それで、彼に会って意気投合し、名古屋に社会人クイズ・サークルを作ろうということでできたのが、「どえりゃあもんくらぶ」である。僕も参加していた初期は、寺島満智子氏、五島滋子氏、宮崎良雄氏、宮崎武雄氏、加藤厚氏といった錚々たるメンバーが揃っていた。もちろん名大からは仲野も参加していて、企画担当として活躍してくれたが、これは仲野の紹介ページでも触れたので、ここでは繰り返さない。

そして、彼はこのサークルからちょっと足の遠のいた頃にあの「事件」が発生する。

「稲ちゃん」後楽園(ドームになる前)を通過するという「事件」だ。

毎年8月のウルトラで大物が予選を通過すると、9月になると、彼は今どこまで行っているという話題で毎日が持ちきりだった。

「稲ちゃん」の時も、どうやら敗者復活で名古屋に行ったらしいから始まって、日々刻々、次から次へ情報が入ってきていたことは憶えている。でも、どうやって入ってきていたのかはあまり定かでないのだが。

東京は、村田さんを中心としたホノルル・ルート、関西は関クイ-RUQSのルートで、あとは名古屋のどえりゃあもんのルートだったはずだ。

そして、稲ちゃんは、とうとう優勝してしまった。第11代のウルトラクイズの王者である。

昨日までは、簡単に叩いて捻り潰していた存在が、急に巨大な羨望の的に変身したことに、なんとも言えないやるせなさを感じたことはたしかだ。

アタック25での優勝というタイトルはあるものの、他はとくに目立った成績は残していない。でも、ウルトラクイズの優勝者というタイトルがあれば、それで十分すぎるわけだ。まったくもって羨ましい。

以後、90年代初めの日本一決定戦番組で何度か顔を合わせたりした程度で、それがある時、とんねるずの番組のコーナーでダイビングクイズをやって、僕が簡単に勝ってしまったのだが、あまりに面白くなさすぎてか、没になってしまい、オンエアされず終いだった。

彼自身、その後何年も経ってから、ふと思い出したように僕のことを「クイズティーチャー 秋利美紀雄」と題してブログに書いている。

……その後とんねるずの番組の1コーナーでダイビングクイズ(=1対1の対戦クイズでそれぞれがすべり台に乗り、クイズに正解すると相手のすべり台の傾斜が一 段大きくなっていって、先にすべり落ちたほうが負けというレトロクイズ)をやっていたとき、クイズ王対決と銘打った回で、僕が呼ばれたことがあった。相手 はなぜか秋利。本番では僕と秋利が1問ずつを答えてお互い1段階ずつアップした3問目、秋利が答えて僕のすべり台がもう1段あがったところで、僕はこらえ きれずにあっけなく風船の海にすべり落ちた。「秋利がクイズ王対決に勝利」した瞬間なのだが、あまりにあっけなく勝敗がついてしまったため、その収録は結局オンエアされずにお蔵入りになってしまったのである。

ハウエバー稲川のパチンコ島通信」よ

 
最近はツイッター上でときどき会話したりもしている。
ツイッター上には、ウルトラファンの女性らも大勢いるが、愛される存在「稲ちゃん」は健在で、彼女らにも人気のようだ。

クイズトークライブ今年は7月にクイズジャパンのトークライブで、二十数年ぶりに顔を合わせ、当時の思い出話を語り合った。とにかくいっぱいしゃべりたい人なので、好き放題しゃべらせてやっていたら、ご満悦そうだった。話好きのいいおじさんであるのは、今も昔も変わらない。

年末のマンオブシニアも参加できることになったみたいだし、また会って当時の思い出話に花を咲かせることができると思うと、今から楽しみだ。

 

3択問題を毎週100問作成!名大の誇った問題製造マシン–仲野隆也

仲野隆也

交遊録の先鋒が相原なら、次鋒は仲野隆也だ。

相原は現在マンオブシニアの準備の関係で近頃は頻繁に連絡をとっているので、
昨日出したブログ記事にすぐに反応して連絡をくれたが、(だから、あんまり下手なことも書けなかったんだけど^^;)
仲野は最近メールしても、なかなか返事も返ってこないし、このブログも読んでないだろうから、気兼ねなく思ったことが書ける。(^^)

仲野隆也は、生まれは同学年だが、一浪して大学に入ってきたので、以来、ずっと後輩扱いだ。
本人はそれをちょっと不満に思っていたようで、先日のQuiz Japan主催の東京でのトークライブの際にブツクサ言っていた。

仲野隆也

名大クイズ研30周年パーティーで挨拶する仲野隆也

仲野のクイズデビューも相原同様高校時代で、クイズタイムショックの高校生大会で9問正解して優勝。
このときには、今や押しも押されぬクイズの女王・石野まゆみも出場していて、彼女は8問正解で仲野に敗れている。

高校時代にテレビ出場したことから、大学のクイズ研以前から僕の方は知っていて、名大にクイズ研究会を作った時も、ひょっとして彼がサークルに入ってこないかなという期待はあった。
そして、期待通り、クイズ研究会設立後の1985年4月の会員募集時に見事彼はやってきた。
各サークルが新入生を勧誘する「地獄の細道」というサークル紹介のイベント中、「ああ、あった、あった、ここだ」とかなんとか言いながら、クイズ研にやってきたのだった。

1984年12月にできたばかりの名古屋大学クイズ研究会に仲野が加入したことで、我々のサークルが大きく飛躍する基礎ができたということは紛れもない事実だ。この後、名大クイズ研は設立時に参加した大石禎(第15回ウルトラ・第10CPドミニカ敗退)と、呼び掛け人の僕、さらに仲野の同い年生まれ3人が中心になって活動していった。

仲野は家が三重の県庁・津にあって、毎日、電車で2時間以上かけて、自宅から大学まで通っていた。
電車の中で暇な時間は腐るほどあるということで、その時間をクイズの問題づくりに充てていた。

そういう中で生まれたのが、毎週クイズの例会で行われた3択100問ペーパークイズだった。

これはウルトラクイズの成田からグアム(あるいはサイパン)に向かう飛行機の中で行われたクイズと同じ形式で、
100問のマークシート方式の3択クイズを8分、つまり1問あたり4.8秒という短時間で解くというものだった。

本番のウルトラクイズでは200問ずつ2回の合計400問で行われたが、仲野は毎週その3択を100問用意し、僕らはそれにほとんど毎週挑戦した。
問題作成をしたことのある人ならわかると思うが、問題というのはそんなにポンポン浮かんでくるものではない。
それを、学生時代を通じて、ほとんど毎週のように100問の3択ペーパークイズを作って、皆を楽しませ、実力を鍛えていた彼には、今思うと本当に頭がさがる思いだ。
今更だが、この場を借りて感謝の意を表したい。(たぶん本人は読んでないだろうが^^;)

年末に東京で開かれていた学生日本一決定戦でもこの形式で予選を行うのが恒例となっており、日頃から仲野が作り出す3択で鍛えられていた我々名大勢は圧倒的な強さを見せつけ、「3択の名大」の名前で一躍知られるようになった。
仲野と僕が出場していたころの1986年から1988年までの3年間は、予選の1位と2位に与えられるシード権を僕と仲野の2人でほぼ独占していた。

とりわけ、1986年のマンオブは予選1位秋利、2位仲野で、決勝で仲野が優勝、僕が準優勝と名大クイズ研の台頭を轟かせる大会となった。
僕自身はこの3年間はすべてシード権獲得、うち86年と88年は1位だった。それもこれも仲野の3択問題のおかげである。

彼の作った毎週の3択クイズの問題集は、その後、立命館など他大学のサークルの人も欲しがり、コピーが出回るようになった。今ならオープン大会の問題集がふつうに出回るようだが、当時はそういうことは珍しく、言ってみれば、彼の3択問題集はそうしたクイズ問題集の走りだったと言えるかもしれない。

プレーヤーとしての彼の足跡は、先に上げた高校時代のクイズ・タイムショックの優勝やマンオブの優勝以外に、これに先立つ1985年のトリビアルパスート日本選手権で、同じサークルの同級生・松岡と出場し、僕と相原のペアを抑えて優勝している。

1989年の第13回ウルトラクイズでも彼の活躍で、僕や長戸など、名大・立命館組が大量予選合格する原動力となっていた。だが、この大会では当の本人は成田のジャンケンで負けてしまい、これ以降、日本一決定戦ものの番組もそこそこのところまでは行くのだが、パッとした戦績は残せていない。

これまで振り返ってみてきたように、彼はプレーヤーとしてももちろん有能だったが、それ以上に問題制作者、企画者として優れていた。

東京のホノルルクラブや関西クイズ愛好会のような社会人クイズサークルを中京地区に作ろうと稲川良夫氏(第11回ウルトラクイズ優勝者)と企画したとき、僕が企画担当者として有能な仲野をサークルに引き入れた。

その後、僕は何回か名古屋大学クイズ研に足を運び、ついには秋利とともに、名古屋に新しい社会人クイズサークルを立ち上げることにした。このときも、でき るだけ多くのクイズプレイヤーに参加してもらうために、クイズ界では無名だった僕と秋利だけでなく、五島滋子さん(第1回ウルトラクイズ準優勝)と寺島満 智子さんにも発起人になってもらおうという僕の提案に対して、秋利は、例会を盛り上げるためにも企画が得意な後輩の仲野隆也を発起人に加えたいと提案し た。このあたりもクイズティーチャー秋利美紀雄らしいナイスな発想だった。

ハウエバー稲川のパチンコ島通信「クイズティーチャー 秋利美紀雄」より

「どえりゃあもんくらぶ」という名のこのサークルも、きっと仲野なしではうまくいかなかったろう。

その後、僕も彼も東京へ移り、これまたクイズ部というサークルを立ち上げて、一緒にクイズを楽しんだ。

仲野隆也言ってみれば、仲野は僕がもっともクイズを一緒に楽しんだ伴侶のようなものだった。もちろん、共有した問題数で言えば、まちがいなく彼が最多だった。

彼は大学を卒業後はFMラジオの放送会社に就職したのだが、10年ほどして辞め、ついには長戸勇人ともにクイズの問題制作会社「セブンワンダーズ」を設立、クイズ制作を生業とすることになって現在に至っている。
クイズ、まさしくこれこそが彼の天職であり、人生なのだろう。