秋利美記雄

27年前にウルトラクイズで答えた「タックスヘイブン」が…

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パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した、いわゆる「パナマ文書」の問題で世界中が騒然となっている。パナマという「タックス・ヘイブン(租税回避地)」を利用して、大企業や大富豪らが課税を逃れていたという証拠の文書だからだ。

 

27年前の準決勝ボルティモアで答えた問題

そうした本質的な問題はさておき、27年前にウルトラクイズで準決勝ボルティモアまで勝ち進んだ際に、ちょうどこれに関する問題が出て、僕が正解を答えていた。

You Tubeで見返してみたが、我ながら、まあ、なかなかのいいところでボタンを押していたように思う。

 

ツイッター上で大反響

で、これが当時の視聴者の皆さんの記憶にも残っていて、ツイッター上で予想以上に多くの反応があったのには驚きを禁じ得なかった。

 

時事ネタ絡みだし…

まさにお祭り状態。それにしても、27年前だよ。

ホットな時事ネタ絡みとはいえ、みんな、よく憶えてくれているね。

これだけの話題なら、萩原津年武さんのブログでも採り上げられるかも。

それにしても、これだけたくさんの人に記憶に残っているというのは、いかにウルトラクイズが凄い番組だったかということだろうね。

  

 

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秋利美記雄とは

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秋利美記雄

 

秋利 美記雄[1](あきとし みきお、1966年 – )は、日本実業家。クイズプレイヤー。合同会社カラコロモ代表。山口県下関市出身。名古屋大学卒業。

目次

人物

アメリカ横断ウルトラクイズ

1984年『史上最大!第8回アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ系列)で予選を突破するも、グアムの「突撃○×泥んこクイズ」で敗退。その後同年12月に、第14回で機内ペーパークイズ1位となった大石禎らと共に名古屋大学クイズ研究会を創設。さらには社会人クイズサークル「どえりゃあもんくらぶ」を同大学クイズ研究会の後輩であった仲野隆也(現・有限会社セブンワンダーズ代表)や五島滋子(第1回ウルトラクイズ準優勝)と共に設立。

1989年『史上最大!第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』で5年ぶりに予選を突破し、オーストラリア大陸上陸、アメリカ本土上陸を果たす。出場者の1人である長戸勇人をライバル視しており、第9チェックポイントのショットオーバーで行われた「地獄のお叫びクイズ」では秋利の絶叫フレーズが「長戸帰れー!!」(それを聞いた長戸が「秋利帰れ」と言ったため、長戸の絶叫フレーズが急遽「秋利帰れー!!」に変更された)、準決勝のボルティモアで行われた「通せんぼクイズ」は、長戸、永田喜彰田川憲治と 対決。準決勝用に用意された問題140問が使い果たされるほどの激戦を繰り広げ、長戸の通過を8回阻止するが、田川と共に破れる(なお、罰ゲームとして行 われた3位決定戦を制したので、3位秋利、4位田川となっている)。その後ファミリー劇場の「今だから話せるアメリカ横断ウルトラクイズ丸秘証言集 PARTII」で秋利、長戸、永田、田川の4人が出演し、特別ルール(番組当時の構成を担当していた萩原津年武が 製作した10問の問題に早押しで解答。正解で1ポイント、不正解でマイナス1ポイント)で再現されたボルチモアの戦いで優勝し、リベンジを果たしている (だが、長戸と永田がお手つきを連発、秋利と田川は無解答だったため、最終的には長戸と永田がマイナス1ポイント、秋利と田川が0ポイントという結果だっ たので、易しい決勝問題を正解した秋利が勝利した)。第14回にも出場したが、ドーム予選で敗退した。

その後も、『FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦!』、『カルトQ競馬)』に出場するなどクイズプレイヤーとして活動を続ける。

設立した名古屋大学クイズ研究会は、秋利と長戸との対決が縁となり、同研究会最大のライバルである立命館大学クイズソサエティーとの交流戦である「名立戦」(めいりつせん)[2]を、国立と私立との垣根を越え、毎年11月頃に定期的に実施するようになった[3]

実業家として

1993年シンガポールに移住し、1995年にはベトナムホーチミンに移住。

1997年にアパレル会社の通訳を経て、2003年5月にホーチミンにてアパレル商社Maido Co., Ltd.設立。

2009年、日本の貿易会社カラコロモ設立し、アパレルのコンサルティングやポータルサイト「アパレルリソースインインドシナ」を立ち上げるなど東南アジアを中心にビジネスを展開している。

脚注

  1. ^ 公式サイトでは「美記雄」になっているが、クイズ番組出演時には「美紀雄」となっている。
  2. ^ 立命館大学側では「立名戦」(りつめいせん)とも称する場合もあるが、正式名称は立命館大学側も名古屋大学側も「名立戦」である。
  3. ^ 名古屋大学クイズ研究会公式ホームページ「名古屋大学クイズ研究会の紹介」また、名古屋大学クイズ研究会公式Twitterおよび立命館大学クイズソサエティー公式Twitterのいずれもの過去のツイートで名立戦の実施が確認できる。

外部リンク

 

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3択問題を毎週100問作成!名大の誇った問題製造マシン–仲野隆也

仲野隆也
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交遊録の先鋒が相原なら、次鋒は仲野隆也だ。

相原は現在マンオブシニアの準備の関係で近頃は頻繁に連絡をとっているので、
昨日出したブログ記事にすぐに反応して連絡をくれたが、(だから、あんまり下手なことも書けなかったんだけど^^;)
仲野は最近メールしても、なかなか返事も返ってこないし、このブログも読んでないだろうから、気兼ねなく思ったことが書ける。(^^)

仲野隆也は、生まれは同学年だが、一浪して大学に入ってきたので、以来、ずっと後輩扱いだ。
本人はそれをちょっと不満に思っていたようで、先日のQuiz Japan主催の東京でのトークライブの際にブツクサ言っていた。

仲野隆也

名大クイズ研30周年パーティーで挨拶する仲野隆也

仲野のクイズデビューも相原同様高校時代で、クイズタイムショックの高校生大会で9問正解して優勝。
このときには、今や押しも押されぬクイズの女王・石野まゆみも出場していて、彼女は8問正解で仲野に敗れている。

高校時代にテレビ出場したことから、大学のクイズ研以前から僕の方は知っていて、名大にクイズ研究会を作った時も、ひょっとして彼がサークルに入ってこないかなという期待はあった。
そして、期待通り、クイズ研究会設立後の1985年4月の会員募集時に見事彼はやってきた。
各サークルが新入生を勧誘する「地獄の細道」というサークル紹介のイベント中、「ああ、あった、あった、ここだ」とかなんとか言いながら、クイズ研にやってきたのだった。

1984年12月にできたばかりの名古屋大学クイズ研究会に仲野が加入したことで、我々のサークルが大きく飛躍する基礎ができたということは紛れもない事実だ。この後、名大クイズ研は設立時に参加した大石禎(第15回ウルトラ・第10CPドミニカ敗退)と、呼び掛け人の僕、さらに仲野の同い年生まれ3人が中心になって活動していった。

仲野は家が三重の県庁・津にあって、毎日、電車で2時間以上かけて、自宅から大学まで通っていた。
電車の中で暇な時間は腐るほどあるということで、その時間をクイズの問題づくりに充てていた。

そういう中で生まれたのが、毎週クイズの例会で行われた3択100問ペーパークイズだった。

これはウルトラクイズの成田からグアム(あるいはサイパン)に向かう飛行機の中で行われたクイズと同じ形式で、
100問のマークシート方式の3択クイズを8分、つまり1問あたり4.8秒という短時間で解くというものだった。

本番のウルトラクイズでは200問ずつ2回の合計400問で行われたが、仲野は毎週その3択を100問用意し、僕らはそれにほとんど毎週挑戦した。
問題作成をしたことのある人ならわかると思うが、問題というのはそんなにポンポン浮かんでくるものではない。
それを、学生時代を通じて、ほとんど毎週のように100問の3択ペーパークイズを作って、皆を楽しませ、実力を鍛えていた彼には、今思うと本当に頭がさがる思いだ。
今更だが、この場を借りて感謝の意を表したい。(たぶん本人は読んでないだろうが^^;)

年末に東京で開かれていた学生日本一決定戦でもこの形式で予選を行うのが恒例となっており、日頃から仲野が作り出す3択で鍛えられていた我々名大勢は圧倒的な強さを見せつけ、「3択の名大」の名前で一躍知られるようになった。
仲野と僕が出場していたころの1986年から1988年までの3年間は、予選の1位と2位に与えられるシード権を僕と仲野の2人でほぼ独占していた。

とりわけ、1986年のマンオブは予選1位秋利、2位仲野で、決勝で仲野が優勝、僕が準優勝と名大クイズ研の台頭を轟かせる大会となった。
僕自身はこの3年間はすべてシード権獲得、うち86年と88年は1位だった。それもこれも仲野の3択問題のおかげである。

彼の作った毎週の3択クイズの問題集は、その後、立命館など他大学のサークルの人も欲しがり、コピーが出回るようになった。今ならオープン大会の問題集がふつうに出回るようだが、当時はそういうことは珍しく、言ってみれば、彼の3択問題集はそうしたクイズ問題集の走りだったと言えるかもしれない。

プレーヤーとしての彼の足跡は、先に上げた高校時代のクイズ・タイムショックの優勝やマンオブの優勝以外に、これに先立つ1985年のトリビアルパスート日本選手権で、同じサークルの同級生・松岡と出場し、僕と相原のペアを抑えて優勝している。

1989年の第13回ウルトラクイズでも彼の活躍で、僕や長戸など、名大・立命館組が大量予選合格する原動力となっていた。だが、この大会では当の本人は成田のジャンケンで負けてしまい、これ以降、日本一決定戦ものの番組もそこそこのところまでは行くのだが、パッとした戦績は残せていない。

これまで振り返ってみてきたように、彼はプレーヤーとしてももちろん有能だったが、それ以上に問題制作者、企画者として優れていた。

東京のホノルルクラブや関西クイズ愛好会のような社会人クイズサークルを中京地区に作ろうと稲川良夫氏(第11回ウルトラクイズ優勝者)と企画したとき、僕が企画担当者として有能な仲野をサークルに引き入れた。

その後、僕は何回か名古屋大学クイズ研に足を運び、ついには秋利とともに、名古屋に新しい社会人クイズサークルを立ち上げることにした。このときも、でき るだけ多くのクイズプレイヤーに参加してもらうために、クイズ界では無名だった僕と秋利だけでなく、五島滋子さん(第1回ウルトラクイズ準優勝)と寺島満 智子さんにも発起人になってもらおうという僕の提案に対して、秋利は、例会を盛り上げるためにも企画が得意な後輩の仲野隆也を発起人に加えたいと提案し た。このあたりもクイズティーチャー秋利美紀雄らしいナイスな発想だった。

ハウエバー稲川のパチンコ島通信「クイズティーチャー 秋利美紀雄」より

「どえりゃあもんくらぶ」という名のこのサークルも、きっと仲野なしではうまくいかなかったろう。

その後、僕も彼も東京へ移り、これまたクイズ部というサークルを立ち上げて、一緒にクイズを楽しんだ。

仲野隆也言ってみれば、仲野は僕がもっともクイズを一緒に楽しんだ伴侶のようなものだった。もちろん、共有した問題数で言えば、まちがいなく彼が最多だった。

彼は大学を卒業後はFMラジオの放送会社に就職したのだが、10年ほどして辞め、ついには長戸勇人ともにクイズの問題制作会社「セブンワンダーズ」を設立、クイズ制作を生業とすることになって現在に至っている。
クイズ、まさしくこれこそが彼の天職であり、人生なのだろう。

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