ベトナムに住んでいると言うと、なぜベトナムなのかと訊かれることがある。
仮に海外在住という括りなら、アメリカやヨーロッパや中国やら選択肢はいろいろある。
東南アジアに限ってみても、シンガポールやタイやマレーシアだってあるだろうにということだろう。
最近でこそ、日本からベトナムに来る旅行者も増え、日本に住むベトナム人も急増して、ベトナムは遠い国ではなくなってきたが、私が住みだした20年以上前のベトナムは日本人には馴染みの薄い珍しい国だったのだ。

By: manhhai
「なぜベトナムなの?」という問いの中には、海外の国なら他に馴染みのある国々がたくさんあるのに、わざわざそんな変わった国に行くの?という疑問が潜んでいるのだろう。
ダイヤモンド社が1979年から出版している旅行ガイドブック「地球の歩き方」には、私が初めてベトナムに訪れた1993年当時「フロンティア編」というのがあって、西アフリカやブータンなど、ちょっとやそっとで行けない秘境地域を集めたシリーズがあったのだが、ベトナムはそのシリーズの中にはいっていた。
当時のベトナムはそれくらい未知の国だった。
にもかかわらず、私の身近にはベトナムに関わった人が3人もいて、それが私をこの国に誘うきっかけをあたえてくれたのだった。
その3人がいずれも不思議な魅力を持った人たちで、彼らに導かれるように私はベトナムに訪問することになったのだった。
学習塾のM塾長が語り聞かせてくれたベトナム戦争中のサイゴンのこと
第13回ウルトラクイズに出場した1989年当時、私は東京江東区亀戸の学習塾に講師として勤めていた。
番組の中でも私は塾講師として紹介されている。そこの社長がM塾長である。
この塾長は、ウルトラクイズのことを知らず、私の休暇申請に渋い顔をしながらも、最終的には認めてくれた方である。
ウルトラクイズの旅から戻り、番組の放送が始まると、テレビで私を見た生徒や父兄が騒ぎ出し、ようやくこの時私が出た番組の影響力の大きさに気付くのだった。
塾長は学習塾のいい宣伝になったことを喜んでくれ、以後、私はテレビ番組出演のための休暇申請がしやすくなった。
M塾長はこの学習塾を立ち上げるはるか以前、ベトナム戦争当時のサイゴンに商船関係の仕事で駐在されていたか、出張で頻繁に行かれていたようだった。
事あるごとに、昔のサイゴンの華やかなりし時代を語ってくれた。
マジェスティックホテルに泊まって、朝、階下のレストランで炒飯を食った話、シクロに乗って出歩いた話などを何度となく聞かされた。
昔のベトナムの現地の生の体験を語ってくれた唯一の人物だった。
楽しかった懐かしい体験を語る姿が印象的だった。彼の笑顔がきっと最初の引鉄だったのだ。

By: Reuben Ingber
師事した翻訳家長島良三氏はC・ドヌーブ主演映画「インドシナ」の原作小説訳者
大学を卒業して、フランス語の翻訳家を目指していた私は、東京に出てくると、働きながら、フランス語翻訳学校に通い勉強した。その学校の講師を務めていたのが、プロのフランス語翻訳家として活躍されていた故長島良三先生だった。
長島先生は、翻訳物の出版で知られる早川書房で「ミステリマガジン」の編集長などをされた後、退職され、翻訳家として活躍されていた。
映画で一世を風靡した「エマニュエル夫人」の原作や「メグレ警視シリーズ」という警察小説などの翻訳で名を知られていた。
東京にいた5年間、私はずっとこの先生のもとで勉強し、その間、4冊ほど下訳を任せていただいた。4冊の小説は先生の名前のもとに無事出版された。だが、日本を離れることになり、結局、フランス語の翻訳家への道は断念する。
私が東京に住んでいたころ、フランスでは、かつて植民地としていた仏領インドシナ時代を懐古するインドシナブームが起こっていた。
1984年にフランスの女流小説家マルグリット・デュラスが書いた自伝的小説「愛人/ラマン」はゴンクール賞を受賞し、世界的ベストセラーとなっていた。
この小説は1992年にジャン=ジャック・アノー監督により、主演ジェーン・マーチ、レオン・カーフェイらのキャストらで映画化され、大ヒットした。
ちょうど同じころ、やはり植民地時代のインドシナ南部を舞台にしたカトリーヌ・ドヌーブ主演の映画「インドシナ」も好評を博した。
原作は小説家クリスチャン・ド・モンテラによるもので、長島先生がこの本を翻訳された。
ベトナム戦争以後で、一般の人がベトナムに関心を持ったとしたら、おそらく多くの人がこの2つの映画に感化されたのではないだろうか?
それでも、この2つの映画がテーマにしたのはフランス植民地時代のベトナムであって、リアルタイムのそれではなかったのだ。
翻訳出版社の上司Yさんは、解禁直後のベトナムを旅し、生の実情を伝えてくれた
英会話学校で有名なベルリッツには翻訳の部門があって、私はその翻訳部門に編集担当として勤めていた。ベルリッツの知名度を活かして、企業向けのビジネス翻訳を扱う部門だった。
でも、私が興味のあるのは出版だったので、この翻訳部門から出版部門が分離・独立するという話が出てきたとき、すぐさま、それに飛びついてしまった。
飛びついてしまったという書き方をしたのは、結果的にこれが職を失うきっかけになったからだ。
独立後、ほどなく当時の福武書店(今のベネッセ)がベルリッツの日本法人を買収してしまった。
福武書店自身は、その名の通り出版社でもあったので、知名度のあるベルリッツの英会話学校さえ手に入れば、出版部門は不要だった。それで、買収後、出版部門は閉鎖されることになった。1993年7月末で私は職を失った。
じつは、この出版部門を立ち上げたのが、翻訳部門の上司だったYさんで、この人はちょっと風変わりなおじさんだった。
当時はバックパッカーという言葉もなかったが、手提げかばん一つで世界中どこでもひょいひょいと旅するような人だった。いまごろどこで何をしているのだろう?
ここに掲載した「海外旅行会話ブック」シリーズは私が当時編集に携わったもの。
このYさん、1992年ごろ、当時はまだ自由にベトナム国内を旅行できる時代のベトナムを旅行して、体験を語ってくれたのだった。
旅して、体験を語るだけのことがどうしたと思われる方もいるだろう。
これがどれだけ貴重なのかを知るには、当時の状況を理解しないとわかりはしない。
今と当時ではまったく状況がちがうのだ。
当時はベトナムを旅行したい人はベトナム・ツーリズムという唯一の国営旅行会社を通して、旅行を申請し、ベトナム到着後もガイドという名の監視役を同行しないと国内移動が許されない時代だった。
1993年4月になって、この制度がなくなると、これを「自由旅行解禁」と呼んだ。
日本とベトナムの関係はベトナム戦争後、ベトナムがカンボジアに介入をはじめると、経済制裁を課し、交流はまったくなくなっていた。1980年代のベトナムは日本からすれば、いわば鎖国している国だった。1980年代末になって、ドイモイ政策という改革が始まり、カンボジアに駐留していた軍を引き上げるようになって、ようやく国交が正常化されていく。
1990年代はじめに商社などが駐在員事務所を置くまでは、ベトナムには日本の民間人はほとんど皆無だった。
ベトナム側もそのころ初めて、東西冷戦時代の西側諸国を受け入れだしたばかりなので、外国人の動きには常に監視を付けていた。当時の商社の駐在員らにはスパイの嫌疑がかけられ、日ごろから皆、尾行がついていた。
外国人と接する人たちは、数少ない外資企業に勤める人たちと旅行会社のスタッフくらいのもので、日常で外国人と接触する人はいなかった。へたに接触しようものなら、その人たちまであらぬ嫌疑をかけられる恐れがあるからだ。市場の物売りですら英語ができる者の人数はごく限られていた。
今なら北朝鮮を旅行することを想像してもらえばいいのではないだろうか。
私の当時の上司のYさんはそういう国の旅行体験を語ってくれたのだった。
まとめ
日本にとって、ベトナムがまったく未知の国であった1990年代初め、私はたまたま身の回りにいた別々の3人の人物を通じて、ベトナムと接触を持つことになった。
学習塾の塾長M社長はベトナム戦争時代のサイゴンの思い出話を語り聞かせてくれ、
フランス語の翻訳家長島良三先生に師事したことで、小説や映画を通して植民地時代のインドシナ南部に触れる機会を得た。
勤めていた翻訳事務所の職場の上司Yさんは、果敢にもベトナム旅行し、当時の生の状況を教えてもらっていた。
シンガポールに移住した私が最初の休暇中の旅行先としてベトナムを選んだのにはこうした背景があったのだ。
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