
クイーンズタウンでは連日のクイズ。
いよいよ土産物屋の日本人が言っていた名物の登場だ。
現場に着いて、回答席まで行くまでの間、目隠しをされ、スタッフに手を曳かれて行った。目隠しを解かれると、目の前にはトメさんが立っていて、そして、すぐ後を振り返るように促された。
百聞は一見に如かずとは、まさにこのこと。私たちの眼の前で、吊橋から人が谷底の川に向かって身を投げ出すのだから。
僕は高所恐怖症なので、万が一このクイズで負けていたら、恐怖のあまり、とんでもない醜態を晒したであろうと思うのだが、大声クイズで負けるとはつゆほども思っておらず、余裕の勝ち抜けだった。ホント言えば一抜けしたかったのだが。(結局、僕はウルトラの旅の中で一度も一抜けしていない。これはちょっと心残りだ)

By: eyeintim
僕と長戸はちょうど同い年の雑誌「昭和40年男」の世代で、同じようにウルトラクイズを見て、クイズを志すようになり、大学時代も何度も戦い、良きライバルだった。
当時、学生日本一を決定する「マン・オブ・ザ・イヤー」というチャンピオン大会が毎年12月に東京で開催されていた。
1986年には僕は予選1位で、準優勝(優勝は同じ名大の仲野隆也)。このとき、準決勝では、長戸、稲川(第11回ウルトラクイズ優勝)、鎌田の立命館三人衆を一纏めにして破った。 1988年のこの大会では長戸が優勝する。
このウルトラクイズの旅の間ライバルとして、特に、このショットオーバーでの僕と長戸の大声フレーズ「長戸帰れー!」「秋利帰れー!」は実に多くの人の記憶に残ることになるが、これはこのウルトラの旅の間だけでなく、実に長い因縁の歴史があったのだ。 ともかく、このときは長戸に先着して僕はご機嫌だった。
それにしても、このバンジージャンプ、1988年11月にニュージーランドのこの場所で始まったのをすぐさま翌年の9月にウルトラクイズが録画して11月に放映されたという。ウルトラスタッフの情報収集力の凄さにはお見事と言うしかない。
こうして僕らの1989年のウルトラクイズの旅はつづく。
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[ 「帰れTシャツ」デザイン募集のページ]
<リツイート希望>ファン皆様、お待たせ致しました。ショットオーバーの「帰れTシャツ」のデザイン募集のお知らせです。 多くのデザイナーの方に参加いただけるようリツイートのご協力お願い致します。 http://t.co/9x5jrwTspr— 秋利美記雄 (@saigon1995) 2015, 9月 25
私は今でも秋利対長戸の決勝になったらどういう結果になったか、ワクワクします。
一ウルトラファンより
そうですね。あの頃は、私は1対1の勝負には滅法強かったので、どちらが勝ったにしても大接戦になったことでしょうね。20年以上昔のことなのに、思い返してワクワクできるって、ウルトラクイズはホントにすごい番組でしたね。